関西屈指の高級住宅街、芦屋。JR芦屋駅から南側へ少し歩いた国道2号線沿いに、朝から晩までお客さんの出入りが続くパン屋がある。店の名は『ビゴの店』。その主は、日本に本場のフランスパンを広め普及させた功労者として〝パンの神様〟と讃え称され、〝ムッシュ〟の愛称で親しまれる、フィリップ・ビゴ氏である。
彼がフランスから日本へやって来たのは、1965年。東京の国際見本市でバゲット作りのデモンストレーションを行うインストラクターとして抜擢されてのことだった。当時の師匠だったフランスパンの世界的権威、国立製粉学校教授のレイモン・カルベル氏が、弱冠22歳の彼に白羽の矢を立てたのだ。「来日の1年ほど前に母が亡くなって、悲しみを吹っ切るために、日本へ飛び出したのかもしれません」。彼は当時をそう振り返るが、そんな決断が日本におけるパンの歴史を書き替えたといっても過言ではないだろう。
そして、カルベル氏の推薦でパンの店・ドンクの契約指導員となった彼は、異国でフランスパンの普及に尽力することとなる。1972年には、ドンク芦屋店を譲り受けて独立。『ビゴの店』としての1号店をオープンさせ、味にうるさい関西人を虜にしてきた。では、『ビゴ』のパンは他と何が違ったのか。
パン作りにおいて、良質な素材や高度な技術が重要であることは言うまでもないが、彼が何より大切にしているのは発酵。さらには、良い発酵を促す環境だ。添加物を一切使わず天然酵母で小麦の力を最大限に引き出す、いわば『ビゴ』のエスプリである。 「良いパンに育ちやすい環境を作ってあげへんかったら、パンの生き方が変わります。それぐらい、パンは敏感な生き物やから。パン屋で一番可愛いのは何か、主役は何か? パンでしょ。こっちの都合とか理屈だけで杓子定規にやっても、上手いこといかん。待たなあかんかったら黙ってじっと待つとか、状況に合わせてパンと向き合わんとね…。向き合えば向き合うだけ、それに応えてパンはいい子に育つんです。人の子育てと一緒(笑)」。 パン作りを子育てに例え、環境の大切さを熱く語るパンの神様。その教えを受けて独立していった多くの職人たちもまた、いわば彼にとって子どものような存在なのだろう。 「ウチを出た職人の店が全国で100軒ぐらいありますけど、それが私の一番の財産でもあるし一番自慢できることやね」。
芦 屋
1972年、フィリップ・ビゴ氏がドンクから独立して立ち上げた、『ビゴの店』の総本山。オープンから10年後に、再開発事業で現在の場所へ移転した。国道沿いに立つ可愛らしい建物に年齢や性別を問わず多くの人が笑顔で出入りする光景を見ていると、如何に愛されているかがよく分かる。
店内に並ぶパンは、バゲットやバタール、ルヴァンなどトラディショナルなハード系フランスパンから惣菜パンや菓子パンまで多彩。パンの種類によって異なる1日3回ほどの焼き上がり時間を事前にチェックしておけば、焼きたてに出合える確率がグンと上がる。また、焼き菓子やケーキなどの品揃えも豊富で、ギフトや手土産として重宝すること間違いなしだ。
そんなお店に、御年74歳を迎えたムッシュ自ら立つ機会はめっきり減った。流暢な関西弁とフランス語を交えた軽妙なお喋りが聞けなくなったのは寂しい限りだが、パンに対して一切の妥協を許さない『ビゴ』のエスプリは不変。長男で専務のジャンポール・太郎・ビゴ氏をはじめ若い世代の職人たちがしっかりと受け継ぎ、ムッシュが伝えた本物の味を守り続けている。
銀 座
1984年オープンの、『ビゴの店』の東京進出1号店。当時、責任者兼シェフに抜擢されたのは、ビゴ氏の愛弟子・藤森二郎氏だった。既に東京でも『ビゴ』のブランドは名が知れていたが、本場のフランスパンを受け入れる土壌はまだなく、「あんパンやカレーパンはないか?」と言われるほどだったという。ましてや、ビゴ氏のこだわりの天然酵母のパンなど見向きもされなかった。
「東京ではまだ無理では…」と悩む藤森氏に、ビゴ氏はこう道を示したという。「この先、フランス料理を修業したシェフが日本に帰ってくる。若い女性を中心にヨーロッパで食を体験した人が増える。その時こそ、必ず私たちのパンが求められる」と。
その言葉通り、次第に本物を求めるお客さんが集まってきた。当時のことを、藤森氏はこう振り返る。「単に本場のフランスパンを食べて欲しいというだけでなく、食文化全体として日本に伝えたいというムッシュの熱い想いがあったからこそ、多くの人に受け入れられたんだと思います。これまでも、これからも、その想いは変わりません」。
『ビゴ』のエスプリと本物の味は、東京にもしっかりと根付いている。