大阪を代表する歓楽街・北新地の西側で、レンガ調の外観に、真鍮プレートの文字が一際輝くバーがある。オーセンティックなバー『堂島サンボア』だ。
2016年の秋、店に入るとコースターが新調されていた。ユニオンジャックをモチーフにしたデザインに記された「Established1918」から、100周年を表すサインが白抜きで入っている。「すべての店に共通で作りました」と三代目店主の鍵澤秀都さん。歴史の深いこの店名を持つバーは、大阪、京都、東京に現在14軒ある。
「国産ウイスキーの父」竹鶴政孝が英国グラスゴー大学へ醸造学を学ぶために留学した1918(大正7)年に、『サンボア』は岡西繁一氏によって神戸の中心街、北長狭通6丁目に開かれた。店名は谷崎潤一郎のアドバイスによるもの。「岡西ミルクホール」から「ZAMBOA」(ザボンのポルトガル語)と改名したが、看板屋が「Z」を間違え「S」にしてしまったという逸話が残っている。
岡西氏が「もっと大衆的なバーに」と、大阪の北浜へ移転したのが1925(大正14)年。そして、『堂島サンボア』の創始者・鍵澤正男氏が、岡西氏の下でバーテンダーとして腕を磨き、この店を任せられることに。
その後独立し、2年間中之島で営業した後、対岸の堂島で、『堂島サンボア』をオープン。現在の店は戦後に改築されたもので、大阪市が主催している「生きた建築ミュージアム50」に通天閣などとともに選定されている。スタンディングスタイルのこのバーを「風格ある社交空間」と評価している。
そんな『堂島サンボア』では、掃除から一日が始まる。店内の調度品をはじめ、肘掛けや足掛けのバーに至るまですべてが磨き込まれている。その輝きは、歴史は「守る」のではなく「磨き上げる」ものと、物語っている。
そしてこの店の伝統や姿勢に魅せられた津田敦史さんが約10年の修業の後、2010年に東京で独立し、『数寄屋橋サンボア』をオープン。『サンボア』の流れは東京へと繋がる。
堂 島
1934年、鍵澤正男氏が『中之島サンボア』を創業し、戦後、焼け野原からの復興で現在の地に再開した『堂島サンボア』は、毎日歴史を磨いている。店先のドアの押し板や扉の下部の真鍮をはじめ、店内のカウンターバーと足掛けのバーなどを見ると、店の隅々まで磨き込まれているのがよくわかる。
そんな空間でほとんどの客が注文するのがハイボール。三代目のご主人の鍵澤秀都さんの洗練された動きは見るものを魅了する。グラスに削られたダブルの量の印までウイスキーを注いだら、そこにウィルキンソンの炭酸水1本分。氷はなし。一気に注がれる炭酸水の勢いがステア代わりで、仕上げにレモンピールをひねるだけ。電気冷蔵庫が普及する前は、氷はウイスキーや炭酸水を冷やすもので、酒と一緒に入れるものではなかったという。創業時の大正時代に遡る伝統であり、『サンボア』のすべての店に受け継がれている。
数寄屋橋
路面店にこだわり「六本木、渋谷、池袋ほか400軒ぐらい見てきましたが、やはりここに優るところはない」とオーナーバーテンダーの津田さん。納得いくまで物件を探し求め、銀座・数寄屋橋にオープンした。広さは『堂島サンボア』の半分くらいだが、同じくスタンディングスタイル。左右1対の扉付きの古いショーケースは、戦後すぐ『堂島サンボア』が復活したときのもので、1955年の改築まで使っていた。元々は客船のレストランバーで使われていたものを外して持ってきた、という先代からの言い伝えがある。
鍵澤秀都さんは「長いこと階上にポンと置いていた」と言うが、新しい店は「これありき」で、バックバーに織り込む形でデザインされた。『数寄屋橋サンボア』にとって、なくてはならない道具だ。さらに、ハイボール専用のグラスなども、堂島と同じものを用意。『サンボア』の歴史が継承されている。