鉄板を設えたカウンターの前に腰掛け、目の前で調理する焼き手の所作に見惚れながら肉や季節の食材を味わう。今やすっかりお馴染みとなっている鉄板焼ステーキのスタイルは、戦後間もない神戸の町で誕生した。
生みの親は、藤岡重次氏。元々は喫茶店とコーヒー豆の卸売を手がけていたが、太平洋戦争の空襲で全てを失ってしまう。しかし、持ち前の商才を発揮し、戦禍に遭った造船場から入手した鉄板を手に、人通りの多い神戸・三宮の生田神社参道に陣取ってお好み焼の露店を開業。他の露店商との熾烈な陣取り合戦を制すべく、連日泊まり込みで場所を確保し店を守ったという。70年前の戦後すぐに生まれたこの露店が、『みその』のルーツとなっている。
藤岡氏は、物資や食材の調達もままならない中、闇市で仕入れた但馬牛を鉄板で焼き、羽振りのいい進駐軍に向けて提供。元祖鉄板焼ステーキの始まりである。味はもちろん、目の前の鉄板で肉が焼かれるショーのようなスタイルが進駐軍の間で話題となり、「鉄板焼=Teppanyaki」の名が広く知れわたった。
また、今では当たり前になっているキャップ(ステーキカバー)も、この頃に誕生。鉄板から飛び散る油や肉汁で進駐軍や同伴女性の衣服を汚さないよう、フライパンで蓋をしたのがきっかけだ。その副産物として、熱の対流と蒸しの効果で肉がさらに美味しく焼き上がることを発見したのだという。
さらには、今やステーキをはじめ肉料理には欠かせないニンニクも、いち早く導入。中国の戦地から引き揚げてきた客から、ニンニク料理の美味しさを聞いた藤岡氏は、肉とニンニクを同時に焼く『みその』独自のスタイルを考案した。定番のガーリックライスも、フィリピン人客のリクエストに応えて提供したものが日本における元祖だといわれている。これらは、料理経験が浅かった藤岡氏が、客に寄り添い、耳を傾け、最大限もてなそうとした努力の賜物だろう。
戦後すぐの混乱期から70余年、神戸から「鉄板焼」をはじめ数々の元祖を生み出し、東京、大阪、京都への出店で各地にファンを作ってきた名店。後発の同業態がしのぎを削る現代にあっても変わらず愛され続けている。
今ではどこでも当たり前だが、明治から大正時代に登場したカウンター割烹をはじめ、オープンキッチンのトラットリアやビストロなどカウンターを挟んで料理人と差し向かうスタイルは、関西の地で育まれ広まったといわれる。戦後すぐの神戸で始まった、客の目の前で肉を焼いて提供する「鉄板焼」という新しい食も、また然りだ。
このスタイルは、戦後復興期の勢いにのって1960年に進出した東京でも大ヒット。しかし、現場でカウンターに立つ料理人の苦労は大変なものだった。客の目の前で調理するという行為は、一見すると華やかで寿司屋や割烹の花板のようだが、鉄板焼のカウンターは全てが丸見えで手元が隠れない。まさに、一切のごまかしがきかない一発勝負の場である。その上、調理だけに専念できるわけではなく接客も同時に行わなければならない。創業者・藤岡氏も常々、調理の技術はもちろん、表情、所作、会話なども含めて客の時間を預かっているのだと説いたという。
人は自分が食べるものを目の前で包み隠さず見せながら、自分のために作ってくれることこそが美味しいと感じるという食の考え方。それこそが、藤岡氏が伝えたかったことなのだろう。また、メインの食材である肉については、フィレより旨みも滋養も豊かなロース肉を使用。欧米風のステーキソースではなく、塩胡椒とニンニクという最小限の味付けで和牛本来の旨みを最大限に引き出した。そのステーキを食べる道具はナイフとフォークではなく箸、ご飯を盛る食器は皿ではなく茶碗、客席はテーブルや座敷ではなくカウンターという具合に、実にカジュアル。このように、洋食文化の真似事ではなく、日本人として美味しいものを味わう喜びをシンプルに追求する姿勢が、『みその』の真骨頂であり70余年にわたって愛される理由なのだろう。
鉄板を挟んで客と対峙する焼き手たちは、より美味しいを求めて今日もまた、客の声に耳を傾け、客のために肉を焼いている。
元祖 鉄板焼 ステーキ
みその 神戸本店
元祖 鉄板焼 ステーキ
みその 銀座店