大阪のコーヒーは総じて濃いといわれる。とりわけ、心斎橋や難波を擁する大阪ミナミ界隈は、深煎りのストロングコーヒーを出す店が多いエリアだ。そんな街で、なにわ最強にして最高のストロングコーヒーとして名を馳せるのが、千日前に本店を構える『丸福珈琲店』。1934年の創業以来、三代にわたり80余年の歴史と伝統を受け継ぐ、大阪コーヒー界のレジェンド的存在である。
創業者は、鳥取県の商家に生まれ育ち、料理人の道を志した伊吹貞雄氏。くいだおれの街・大阪で腕を磨いた後、ハイカラに憧れて上京。武蔵小山に洋食レストランを立ち上げ、オーナーシェフとして腕を振るっていた。そんな中、銀座で飲んだ一杯のコーヒーに衝撃を受け、自身のレストランでも提供すべく独自の研究を始める。食後にふさわしい一杯として目指したのは、濃厚でコク深く、かつ後味さっぱりのストロングタイプだ。今や“なにわ最強ストロング”として多くのファンを魅了する味は、ここに端を発している。
しかし、日本ではコーヒーなどまだまだ希少で馴染みの薄い時代。舶来の焙煎豆や器具をそのまま使っても、目指す味は実現できない。そこで貞雄氏は、豆の仕入れや焙煎、抽出機の開発など、全て自身で手掛けながら理想を追求した。その自慢の一杯をレストランで振るまい、たちまち好評を博す。大阪の料理人仲間も「大阪でも広めるべきだ」と絶賛し、その言葉を受け止めた貞雄氏は順調だったレストランを未練なくたたんで大阪へ凱旋。通天閣のお膝下、新世界で珈琲専門店『丸福珈琲店』を開業し、コーヒーの道を究めていくのだった。
そして、戦後間もない1945年、故郷の鳥取へ疎開させて守った豆や道具を手に、大阪ミナミの繁華街・千日前に移転。たくましく戦後復興してゆく街場で、芸人や役者、小説家などの文化人から庶民にまで幅広く愛される名店となっていった。
そんな人気ぶりに、貞雄氏の元には出店オファーや商品化の提案が相次いだが、彼は決して首を縦に振ることなく技の一子相伝と味の門外不出を貫き通した。商売人ではなく職人としての気概で、自ら産み育てたコーヒーが誰かの手によって独り歩きさせられることを拒んだのだろう。
初代・貞雄氏が頑なに門戸を閉ざして守り続けた技と味は、1988年に二代目・司朗氏へと受け継がれる。司朗氏もまた、父であり師である先代の意志を継ぎ、出店や商品開発には目を向けなかった。創業から半世紀が過ぎ、すでにコーヒーは特別なものではなく身近な嗜好品となっていたからこそ、職人としてコーヒーと向き合うことに集中したかったのだ。代替わりで味を落とすわけにはいかないという、二代目の苦悩も伺える。 そんな中、祖父や父の背中を見て育った信一郎氏もコーヒーの世界へ。当時、高齢や引っ越しなどの事情で店に来られなくなった馴染客から、「丸福さんのコーヒーを家でも飲みたい」という声が多く寄せられていた。それほどまでに愛してくれる人たちに応えようと、信一郎氏はテイクアウトやギフト用の商品を考案。祖父と父を説得し、商品開発へ乗り出す。1990年に瓶詰め珈琲を世に送り出し、その翌年には袋詰めの珈琲豆と名物の珈琲ゼリーを商品化。オールドファンの期待に応えるだけでなく、商品を通じて『丸福珈琲店』の味を知った新たなファンも獲得していく。 同時に、店舗展開にも積極的に取り組み、1993年に大阪・北浜のレトロビルで初の支店を構えた。以降、開発した商品との相乗効果でデパートなどを中心に出店を重ね、関東へも進出。2001年からは信一郎氏が三代目当主となり、様々な取り組みで新旧問わず多くの“丸福ファン”を楽しませている。
また、信一郎氏は、るみ夫人と試行錯誤を重ねながら、専属パティシエを起用して“丸福らしい”スイーツメニューの充実にも力を注いだ。これは、単に流行やブームに迎合した戦略的な取り組みではない。祖父と父から受け継いだ『丸福珈琲店』の味を、より多くの人に楽しんでもらいたいという純粋な思いの表れだ。実際、店舗では、三世代にわたる家族客や若い女性グループなどが、コーヒーやスイーツが並んだテーブルを囲み和やかなひと時を楽しんでいる光景も珍しくない。
独自の商品開発と店づくりでファンの期待に応える、気鋭の三代目。今では、店舗数も26にまで拡大し、経営者としても多忙な日々を送っている。1日に大阪と東京を2往復することもある中で、最も大切にしているのはコーヒー職人として豆の吟味や焙煎に携わる時間だ。祖父が生み出し、父が守った『丸福珈琲店』の味と技、そして多くのファンから寄せられる信頼。その重みを真摯に受け止め、名店の看板をさらに輝かせようとしている。
丸福珈琲店 千日前本店
丸福珈琲店 銀座喫茶室