直径40センチはあろう大きなステンレス鍋に、たっぷり張られた黄金色のダシ。コンロに火を入れダシが煮立ってくると、まずうどんを入れ、魚介や鶏肉、季節の野菜など15種ほどの具材を加えて煮込む。具材を食べ進むうちにダシは更に旨みを増し、それが染み込んだうどんを食べて余すところなくダシを堪能する。これが、大阪名物の鍋料理『うどんすき』だ。今では、他の店や家庭などでも『うどんすき』の名が使われているが、『美々卯』が登録商標を持つそれとは似て非なる。
『美々卯』のルーツは、大阪・堺で魚問屋から始まり、後に200年続く料亭旅館となった『耳卯楼』。その当主の四男・薩摩平太郎氏が1925(大正14)年に大阪・ミナミの戎橋北詰で蕎麦を中心とした麺類専門店として『美々卯』の看板を掲げたのが発祥だ。
熱盛の蕎麦をうずら卵入りのつゆで食べる『うずらそば』をはじめ、様々な新メニューを生み出す中、1928(昭和3)年に『うどんすき』を考案し商品化。ヒントは、妻のきく氏と食べた、鍋料理の残り汁で煮込んだうどんの美味しさだった。この味を、シメだけではなくメインとしても楽しめるように考えたのである。
関西ではメジカと呼ばれるソウダガツオで旨みを引き出したダシ、ダシを濁さないために下ごしらえした具材、煮崩れしないよう研究した自家製うどんなど、計算し尽くされた素材づかいで、馴染み客や舌の肥えた食通に何度も試食を求め改良を重ねて誕生した『うどんすき』。
その味とスタイルは三代にわたり90年の時を経た今なお、ほとんど変わることなく受け継がれている。
「変える必要がない完成された味。毎日まかないで食べても抜群に美味しい」とは、長年にわたって『美々卯』に勤め、大阪・船場の本店で板場と接客を取り仕切る店長・平山さんの談。今や大阪、京都、名古屋、東京、横浜、千葉で直営21店舗を構える大所帯となったが、どの店の料理人も同じように口を揃える。それは、傲りや慢心などでは決してなく、店の味を純粋に愛する心と、それを次代へ継ごうとする気概の表れなのだろう。時代の移ろいとともに、食のトレンドや人々の嗜好が変わろうとも、美味しいものは美味しい。老若男女や世代を問わず、『うどんすき』を囲む客の笑顔が、何よりの証拠だ。
大阪/船場
大阪・船場の御霊神社西裏にある店は、戦災で消失した北店跡地で1946年に再建。その3年後に、ここから『うどんすき』が再開された、『美々卯』の総本山的存在である。1998年に改築された後も、エントランスには戦後再開当時の小上がりが残されており、この店が歩んできた歴史の重みが感じられる。
かつて大阪商人文化の中心だった船場という土地柄、街場の食通や大企業のお偉方など贔屓筋からの支持は厚いが、サラリーマンや女性同士のグループ、若いカップル、家族連れまで、老若男女、社会的属性を問わず幅広い層の客に愛されており、老舗の名店とはいえ敷居は決して高くない。
登録商標の『うどんすき』は言わずもがな、本店のみで提供されている数量限定の石臼挽き手打ち十割蕎麦を目当てに、わざわざ訪れる熱心なファンも多い。
東京/京橋
『美々卯』の味を広めるべく、初代・平太郎氏の長男である卯一氏が、「おできとうどん屋は大きなったら潰れまっせ」が持論の祖母・きく氏を説得し、1973年に暖簾を掲げた東京での第一号店。「出すからにはテナントビルや商業施設ではなく自前で」という卯一氏ときく氏の思いと覚悟が込められた新店は、銀座通りから少し東へ入った立地で、地上8階、地下2階の建物に450余りの客席を有する、麺類専門店としては類のない大型店舗だ。
当初は関西の薄味ダシ文化が受け入れられにくく、醤油を所望する客も多かったというが、ニーズに合わせて味を変えることは一切せず、初代から受け継ぐ味とスタイルを貫き通してきた。加えて、焼き穴子重や鱧しゃぶなど、関西ではお馴染みの料理をメニューに取り入れるなど、『うどんすき』だけではない『美々卯』の味を広く発信している。