縄文時代以来、調理法や食べ方の変遷を経ながら、人々に親しまれてきた蕎麦。戦国時代末期に、現在のような細く切って食す「蕎麦切り」の手法が生まれ、江戸時代中期には江戸に伝わり広まっていく。気早い気性の江戸っ子が愛した、さっと手繰れる細切りの蕎麦は「江戸蕎麦」と呼ばれるようになり、江戸における蕎麦文化が花開いた。
現在の江戸、つまり東京においても、当時から続く「砂場」「更科」「藪」の三大暖簾をはじめ、新旧問わず数多くの名店が存在。東高西低といわれる蕎麦の勢力図は、昔も今も変わらないようだ。
そんな蕎麦の世界に、西からの新風を吹き込み続ける名店がある。創業店である兵庫県芦屋市の本店を含め、9店舗を展開する『土山人』だ。創業者で現オーナーの渡邊榮次さんは、家業の鯨肉専門店に始まり、服飾業界、輸入雑貨商など、異色の経歴をもつ蕎麦職人だ。関西蕎麦界のレジェンド的名店、「凡愚」に足繁く通う中で蕎麦の魅力に開眼。阪神・淡路大震災を機に雑貨商の会社をたたみ、上京して「江戸東京そばの会」に入門し蕎麦打ちの腕を磨いた。そして、1997年に芦屋の地で自身の店を構える。
開店当初から、蕎麦の実の買い付け、磨き、石抜き、選別、皮むき、石臼挽き、打ちの全工程を自店で行う「自家製粉石臼挽き手打ち蕎麦」の体制を確立。メニューは、喉ごしが良い江戸前の“細挽き”と香りや風味が強い“粗挽き”を定番に、季節の素材などを練り込んだ“変わり”も揃えた。また、店作りにおいても、和に固執せずモダンテイストを織り込むなど、蕎麦屋の通例を覆す店舗デザインで空間を演出。本物の味と斬新なスタイルで、蕎麦通はもちろん蕎麦に馴染みの薄い人々も魅了していったのだった。
関西を中心に暖簾分けで店が増えていく中、2007年には東京へ出店。名店ひしめく「江戸蕎麦」の本場で、関西発の名店として歴史を重ねている。
兵庫/芦屋
1997年の創業と同時に、関西の蕎麦界を席巻した芦屋本店。創業の地で20余年の歴史を重ね、暖簾分けや出身者の独立などで同系の店が増えていく中でも、『土山人』の原点として別格の存在感を放つ名店だ。とはいえ、敷居は高くなく、老若男女を問わず幅広い層の客を迎え入れる。その客たちは、思い思いに蕎麦を堪能。口福に頬を緩ませた後、二言三言の感想を伝えて店を出るのだ。
「うちのお客様は、良いことも悪いことも全てを見てくださっています。そんな中で私が大切にするのは、感想を真摯に受け止める姿勢です。良いことは伸ばし悪いことは直し、お客様の満足を追求しています」とは、店長・関さんの談。
店の主張や思想を押し付けず、客の満足に心を砕く。この姿勢に、『土山人』の名店としての格好良さがある。
東京/中目黒
芦屋での創業から10年後の2007年、中目黒の地で暖簾を掲げた東京1号店。東京から地方への出店はよくある蕎麦の世界にあって、地方から東京、とりわけ関西からというのはレアなケースだ。
創業者の渡邊さんと旧知の仲で、店の立ち上げに加わった東京の現オーナー、柴辻さんは「関西からの新参者ということで、風当たりは強かったですね(笑)」と、出店当時を振り返る。
しかし、培った実力は本物。本店同様の自家製粉石臼挽きによる本格蕎麦打ちや、関西風の出汁をベースにした温かけつゆ、多彩なメニュー構成など、絶妙に緩急を効かせた『土山人』ならではのスタイルで、蕎麦通をはじめ多くのファンを魅了したのだった。今では、押しも押されもせぬ名店として、「江戸蕎麦」の本場で『土山人』の名を轟かせている。